昔の暮らしの記憶をたどる
雪深い熱田の地で生きる苦労から、悲しい事故。そこからの集団移転と、廃村へと続く道。
熱田の昔の暮らし
昭和 年代
標高約700mの集落。大事な働き手で、子牛を産んで生活を支えてくれる牛を家族の一員として、同じ屋根の下の一番日当りのいい場所を牛の寝床にし、牛と共に暮らしていました。
田畑を耕し、冬は男たちは酒造りの出稼ぎに生き、生計を立てていました。
水道・ガスはなく、電気は水力発電で確保し、集落には1台の公衆電話のみが連絡手段だったそう。
雪害に見舞われたのは1968年2月。
大雪の日の悲しい事故
1968年2月
大雪が降り積もった山道を主婦ら6人が買い物から歩いて帰宅する途中、雪崩が起き、生き埋めになった。5人は這い出せたが、1人が亡くなった。
不便を強いられるへき地、そして雪害。救助隊員が「なぜこんなところに住まなければいけないのか」つい嘆いてしまうほどの山里。
ついにこの事故を機に全9世帯50人が集団移住。1969年12月のことでした。
熱田地区への自然学校の受け入れ
故田淵徳左衛門氏
集団移住で小代地区野間谷に建設された越冬住宅で暮らし始めた熱田の住人。移住後も田淵徳左衛門さんは但馬牛の放牧や農作業のため、熱田に通っていた。
そんな中、大阪の市民団体『大阪自然学校』が30年間熱田で自然体験教室を開催し、2010年ごろまで延べ約900人の小中学生が徳左衛門さんと、牛とともに自炊し、熱田で過ごしている。
熱田を第二のふるさとと慕い、いまでも熱田に訪問している人も多い。
そして熱田地区の休止
熱田から移住し、越冬住宅で行政区として「熱田地区」は存続し続けていましたが、高齢化や他地区への移住など、世帯数が減少し、令和元年にはついに1世帯となり、令和2年3月31日をもって、自治会を無期限の活動休止とし、事実上の廃村となりました。